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しなやかな竹や木に弦をかけ、その弾力を利用して矢を飛ばす武器。オーストラリア、タスマニア原住民を除いて広く世界に分布し、その起源は中石器時代に遡る。

 

日本の弓は「魏志倭人伝」も記しているように長弓で7尺前後[要出典]、弓幹の中央より下を握りの位置とするのが特徴である。既に縄文時代に漆を塗った複合弓と丸木弓とが併用され、鏃には主に黒曜石を使っていたが、その後は奈良時代の頃[要出典]まで専ら自然の丸木弓が用いられ、これがやがて削って作る木弓に変わった。しかし、木弓は弾力が足りない為、深く引くと原形に戻らず、遠くを射るには大弓を要した。弓材にはツキゲヤキ、ハゼノキ、マユミなどが用いられ[要出典]、特に梓弓は有名だが何の木にあたるかは定説が無い。

日本においては、欧州と異なり弩(クロスボウ)が発達せず、代わりに弓の長さを長大にして、そして素材に複合素材を用いる事で威力を増す方向に進化した。そのため鉄砲が爆発的に普及する戦国時代後期まで弓は廃れなかった。日本では欧州と異なり、弓は下級兵士だけの武器ではなく、武士の主要な武器として一貫して扱われ、「弓馬の道」などの言葉のように、名のある武将にとって最も鍛錬すべき武芸であり、武士の象徴であった。これは、優れた武将を「何々の弓取り」と呼ぶことにも現れている。出現期の武士にとって戦とは、騎乗した武士同士が騎射しあうことと断言しても良いほどである[要出典]。この伝統は長く受け継がれ、戦国時代に鉄砲が主力兵器に躍り出た後も武士の嗜みとして弓による射芸は生き延び、弓道へと結実した。

平安時代後期、1045年〜1068年、後冷泉天皇の時代に木の外側に竹を張り弾力を増した「伏竹の弓」が作られた[要出典]が、これがさらに内外に竹を張った「三枚打の弓」に発達、室町時代の応仁期(1467年〜1469年)には内外左右に竹を添えた「四方竹の弓」となり[要出典]、さらに竹を心にした弓になった。こうして中世には再び複合弓が出現、丸木弓は廃れていった。

竹と木を接着するには「にべ」というニカワ質のものを用いた。木弓でも破損を防ぐ為トウやシラカバの皮を巻いたが、複合弓は木弓よりも裂けやすく、湿度や温度の影響を受けやすいので、麻糸で千段巻に巻き込めて漆塗りにした塗弓が普通であった。この黒い漆塗りの上にさらに装飾をかねて白い細割のトウを細かな間隔で巻いた物が有名な「重籐の弓」(しげとうのゆみ)である。その種類は多彩で、握りより上を荒く巻いた「本重籐」、逆に下を荒く巻いた「裏重籐」、2箇所、または3箇所ずつトウを寄せて巻いた「二所重籐」「三所重籐」などがある。「塗籠籐」はこのトウの上にさらに塗ったもので朱漆をかけたものを「笛籐」という。

弦は古くはカラムシ、中世からは麻糸をよったものを用い、漆やクスネを塗った。

弓具には矢を携行する容器、指を包むユガケ、弦を入れて携行する弦巻(弦袋)などがある。矢の容器は古くは埴輪にみられる「靫」、奈良時代には「コロク」、平安時代末には「空穂」ができた。これは雨露を防ぐ為矢を収める筒を毛皮で覆ったものである。武士はコロクから変化した「箙」を愛用したが、鎌倉時代末には「矢籠」という簡便な容器が使われ、その後の戦闘に用いられた。

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